Paul Bocuse の味噌カツサンド、ゴーダチーズパン/田舎亭の巻繊蕎麦/フェトチーネ・カルボナーラ
私は自他共に認める「文字ふぇち」ですが、今日はなぜ私が「文字」作りに打ち込むのかお話しします。
現在では、書体の著作権は十分に保護されているとは言えません。剽窃といっても言い過ぎでないくらいそっくりな書体が平気で出回っていたりしますが、書体を一つの著作物として認めない人たちの言い分は何でしょうか。
一つは、そもそも文字には創作の余地がないという意見です。もう一つは、文字は公共的なものなので特定の人に権利を認めるわけにはいかないという意見です。しかしそれはどちらも極めて短絡的な意見だと言えるでしょう。私たちは、「一」と横にのびた線を見て、それが「いち」を意味する字だと知っています。しかしその横にのびた線一つをとっても、それがどのような太さでどのような長さでどのような位置に置かれるかは、書く人の個性の表れで、それによって「一」は美しくもなり、また醜くもなるのです。そこにはもちろん創作の余地がありますし、美しく書かれた字は美しく書いた人のものなのです。
私が今やろうとしている「使用・改変・再配布」が自由な書体は、一見するとそのような書体の著作権を守ろうとする考えに逆行するように見えるかも知れません。しかし、私の意図はそうではありません。明確に「使用・改変・再配布」の自由を謳った書体があまねく利用できれば、書体の著作権に意識を持ってくれる人が少しでも増えるかもしれない、そして著作権を不当に侵害する書体の流通を少しでも押さえことができるかもしれない、と思うのです。そしてもちろん、多くの人に使われて、多くの人の目に触れて、多くの人の手が加わって、よりよいものへと成長させていきたいと思っています。
9/26 の日記 で、タイポグラフィは「ことばをかたちにする技術」だと私は書きました。私が文字作りに打ち込むのは、「そこに文字があるから」ではありません。文字の向こうにはことばがあり、ことばの向こうには文化があります。ことばを愛し、文化を大切に思うからこそ、私は今日も文字を刻むのです。