柳月堂のパン/フェルメールのパニーニ、カイザーロール/
昨日は上司の家で宴会がありまして、みんなでいろんな話をして盛り上がっていたのですが、そこでいつぞやの脳の性別 の余談の続きになってしまいました。
「いつぞや」の話はこんな感じでした (「先」は先輩、「か」はかずひこ)。
先「○○ (私の名字) って中性を目指してるんやろ?」
か「ええまあ、そうですね」
先「もう十分行って行き過ぎやで。もうちょっと戻ってきたらどうや?」
か「...」
で、今回はこんな感じ。
先「前は (女性の方に) 行き過ぎやと思ってたけど、最近の○○ (私の名字) ってちょっと男性感じるで」
か「はぁ、そうですか...」
先「だいぶ戻ってきてええ感じになったなぁ」
か「...」
以前に「ふぇみにん君のできるまで」 で紹介した高校時代の友人あたりからはじまって、これまで私の身近な女性は、あまりいわゆる「女性らしさ」を感じさせるふうな人ではありませんでした。でも最近親しくしている女性の一人は、そういう私のつきあいの中ではいわゆる女性らしさのあるほうの人で、その分私もいわゆる男性らしさみたいなものを無意識に出してバランスを取っているのかもしれません。もちろん実際のところはそんな単純な話じゃないのでしょうけど。
さて、ここまでの話だと男性らしさと女性らしさとが対極にあって、その間に中性があるように思われるかもしれませんが、私にとってはそうではありません。私が中性を目指す、というのは、決してとりあえず女性を目指して途中で留まる、というものではなく、男性らしさとか女性らしさとかを捨て去って、もっと身軽に、もっと自由になったときの自分ははたしてどういう人間なのか、それを知りたいのです。そうしてはじめて、「人間らしさ」みたいなものが見えてくるのかな、と思っています。
そんなことを考えていたのと同じ日に、偶然狩野さんが「フェミニズムのある場所」 というテーマでとても興味深い話を書いていました。
(前略)
いま。どこでもフェミニズムは求められている。そして、すでに、フェミニズムはどこにでもある。つまり、フェミニズムはどこにもない。フェミニズムのある場所などというものは存在しない。フェミニズムはすでに運動ではなく、生活である。いや、生活であるべきだ。と言い直したほうが良いか。
(後略)
フェミニズムのある場所、それはすなわち性別のある場所なのでしょう。
そうではなく、性別のない、もちろんフェミニズムもない、そこにはただ性だけがある、それも社会にではなく個人の内にひっそりとある、そんな場所に私はありたい、と思うのです。