たださんの「なぜGPLを選ぶのか」を読みました。 「うん、そうだよね」と、私にとってはもともと知っていたことのように読めたのは、以前にたださんから直接聞いたのか、それとも単に似たようなことを思っていたからなのか、どっちだったかな。
私自身が自由ソフトウェアを愛してやまないのは、去年のプレゼン「オープンソースは愛だ!」で語ったように、それが顧客への愛であり、仕事への愛であり、作品への愛であると考えるからです。
いずれにしても、たださんの記事を読んで、自由を考えるときに「自分じゃない存在にとっての自由」を考えるのは大切だ、とあらためて思いました。
かつて、世界中に奴隷制度がありました。一部の富裕層だけが搾取し、貧しい者は奴隷として仕えるしかありませんでした。しかも政府がこのような制度を承認していました。
しばしばライセンスに関する議論において、自分の好きな方法で使えないのは自由ではないと主張する人が現れます。 ソースコードを公開しなければならないと書かれているとき、そんなものは自由ではないと主張します。 プロプライエタリソフトウェアのベンダーは、自分達だけがコントロールできるソフトウェアによって、ユーザを奴隷的に扱っていますが、彼らにとっての自由とは、他者を奴隷にする自由なのです。
しかしながら、このような主張は自由とわがままの混同であり、他人を奴隷にする自由がないと言っているのと同じぐらい、本末転倒な主張です。
自由とは、何でもできるということではありません。一定の制限によって、他者を犯さないことが必要なのです。 ユーザの自由を奪い取っているプロプライエタリソフトウェアのベンダーは、果たしてユーザに優れた製品を提供する意志を持っているのでしょうか。
現代の基準では、奴隷制度は著しく人道に外れた行為です。 奴隷制度が撤廃されたように、いつかプロプライエタリソフトウェアがなくなる日は来るのでしょうか。
これだけ読むと論理破綻してると思いますが。<br>1. プロプライエタリソフトウェアのベンダーが、ユーザに優れた製品を提供する意志を持っていないと判断した理由。<br>2. プロプライエタリソフトウェアのベンダーについての言及は、「自分じゃない存在にとっての自由」を考えてないのでは?<br>など。
> 1<br>少なくとも「ユーザの理由を奪っている分」だけ劣った製品を提供しているからです。<br><br>> 2<br>それは自由じゃなくてわがままだと書いています。
奴隷制度の場合には自由意志とは無関係に強制労働が行われるのに対し、ソフトウェアの場合には本人の意志によって選択が行われている、しかも、お金まで払って手に入れるわけで、奴隷とプロプライエタリソフトウェアのユーザを結びつけるのは少々強引なのではないかと思うのですが。一社独占によって事実上の選択肢が失われてしまうというようなことを想定されているのでしょうか。
少なくともこういった議論をする以上、かずひこさんの考えている「正しいこと」もしくは「正しくないこと」を定義してから書いてくれるとありがたいです。特に1の答えはこういう定義だからと読み取れるので、「だったらそれを先に書いてください」となります。ただ、「ソースコードを公開しない」=「ユーザの自由を奪っている」=「優れた製品を提供する意思はない」は、論理的ギャップがあると思います。ソースコードを公開しなくてもシェアウェアなどで優れた製品を提供してくださる方もいますし。
> なんとなくさん<br><br>まず、「ソースコードを公開しない」と「ユーザの自由を奪っている」は同一ではなくて、ソースコードは公開されているけれどユーザの自由は奪われている(再配布禁止とか、改変禁止とか、商業利用禁止とか、特許料払えとか)ケースもあります。<br>それはそれとして、「ユーザの自由を奪う」というのは、ユーザが自ら望んでそうなっているわけではなくて、あくまでもベンダーの意志でそうなっているわけです。<br>もちろん、ユーザに自由を与えているけれどどうしようもない製品もあれば、ユーザの自由を奪っているけれど優れた製品はあります。<br>しかし、どんなに優れた製品であっても、ユーザの自由をベンダー自らの意志で奪ってしまうのは、やはり最高の製品の提供をベンダーの意志で放棄していると考えています。<br>なぜユーザの自由は大切なのか?という話は、またいずれ場を改めて書きますので、ご勘弁を。。。
> okujiさん<br><br>確かに、奴隷制度よりはユーザの意志で選択できる範囲が存在します。<br>でも、おっしゃるように事実上選択肢がほとんど無いとか全く無いケースも多々あります。例えば、ほとんどの大手メーカー製パソコンを買ったらWindows VistaとかMac OS Xが勝手についてくるとか、実装の分からない住基ネットに自分の個人情報を勝手につっこまれるとか、そういうケースです。<br>ユーザの選択肢が事実上減らされている以上は、ユーザが不自由な選択をした結果に対して、一方的に「それはユーザの自己責任だ」とか「無知なユーザが悪い」とかいうのは酷だと思います。<br>でも、不自由な選択の結果被ってしまう不利益は、たいてい巧妙に隠されていますから、ユーザが気がついた時にはもうすでに遅い、ということになりそうな気がします。
返答とあわせて再度読み返したけどやっぱり破綻してると感じます。プロプライエタリソフトウェア(という言葉を初めて知りましたが)ベンダーは、別に強制的にユーザにそのソフトを使わせてるわけではなく、ユーザに選択肢がある。それに大多数のユーザはメーカ製PCを買うときに、MacOSやWindowsが入っていることを納得して(選択して)購入しているわけですよね?かずひこさんや私のように別にソースコードを書いたり読んだりしたいというのはごくわずかで、そういった人間は制限のないものを買えばいいだけの話だと思います。そういった状況をまったく踏まえず、「自由」ということばが非プロプライエタリ側にあてはまり、「わがまま」ということばがプロプライエタリにあてはまるという書き方や、論理の持っていき方はやはりおかしいと感じます。<br>それに、返答であった「最高の製品」という点もまずその定義が曖昧である(かずひこさんの考えているものとプロプライエタリソフトウェアベンダの考えているものが異なる)のもあり、プロプライエタリ側からしたら「最高の製品」を提供していないとはいいきれないと思います。<br>さらに、ソフトウェアだけに話が限りますけど、車を購入するときにあらゆるものの制限をなくし、すべてを公開する(エンジン設計のノウハウから、タイアのゴムの精製方法まで)を要望しますか?ソフトウェアに限らない社会や経済活動を考えたら、私はそういった点にもプロプライエタリがあってしかるべきだと思います。
> なんとなくさん<br><br>ソフトウェアの自由に意味があるのは、なにも「ごくわずか」なソースコードを読み書きできる人にとってだけではありません。読み書きできない人にとっても、読み書きできる人に修正や改良や拡張を依頼することができるという選択肢を与えます。<br>プロプライエタリソフトウェアを使っていて、相当むかつくバグやセキュリティホールがあっても、ベンダーは「新しいバージョンでは修正されているのでアップグレードしてください。有料ですが。」とか言うことはよくある話です。有料かどうかは別にしても「そのバグだけを修正してほしい」というユーザーの希望は実現できないわけです。<br>他にも、ベンダーが倒産してしまって、もう誰にもメンテナンスを依頼できない、というケースもあります。そうなると、ありのままで使いつづけるか、別の製品に乗り換えるかしかできなくなるわけです。それは決してユーザが望んでいることではないと思いますが、だからといって、製品の導入時にそこまでユーザが納得して選択しているともあまり思えません。むしろ、そういう不自由に慣らされてしまってソフトウェアはそういうものなんだと誤解しているだけな気がします。<br><br>「最高の製品」については、あるソフトウェアAがあったとして、「自由なA」と「プロプライエタリなA」のどちらがユーザにとって素晴らしいかというのは、曖昧なことだとは思えません。「自由なA」は「プロプライエタリなA」にプラスアルファの価値を提供するからです。そして、そのプラスアルファの価値を提供するかどうかはベンダーの意志です。
> なんとなくさん<br><br>「ソフトウェアに限らない社会や経済活動を考えたら、私はそういった点にもプロプライエタリがあってしかるべき」と言う考えには、「プロプライエタリな方がイノベーションを促進する」という根拠のない仮定があるように思います。しかし、現実にはむしろ、「多くの最先端分野におけるテクノロジーの進歩は共有された知識、標準、共同的なイノベーションへの取り組みから生まれている」という報告があります。<br>このあたりの話については、例えばokujiさんの日記<br>http://enbug.tdiary.net/20071225.html#p02<br>やそこで紹介されている記事をご覧ください。
才人であるかずひこさんがなぜこの件に関しては頑なに偏狭な意見をもっているのが不思議なのだが、プロプライエタリ=悪しきものと考えているようだから、これ以上何を書いても無駄のような気がするので、これに終わりにします。<br><br>ただ、プロプライエタリな知的財産権をここまで否定する権利というのはだれにもないにもかかわらず、それをわがままと言い切ってしまうのは、あきらかに宗教的偏見といわざるを得ないと思います。<br><br>また、あらゆるソフトウェアに非プロプライエタリを求めるなら、自動車やエアコンなどを購入するにあたっても、そこには組み込みコンピュータもあるのだからメーカに主張すべきだと思いますし、CPUやICといったものもIntelなどに非プロプライエタリを求めるべきでは?それをしないのは片手落ちです。
偏狭なのはどっちなんだか...と感じるのですけどね。憲法で言論と思想の自由が保障されている以上、かずひこさんがどう考えてもそれは彼の権利。自分の考えに合わないからといって、宗教と決めつけるのは論理の飛躍です。もっと建設的な議論を期待します。<br><br>なお、上記で引用されている私の記事は特許権に関する話題であって、ここで述べられているような著作権に関する議論とは性格が異なります。ソフトウェア特許については、ここ20年近くの間、米国や欧州で盛んに経済学者や法学者が研究を行ってきたので、(現在の方式による)特許権による独占が好ましくない結果をもたらすことはかなり明確になりました。しかし、著作権による独占については、私の知っている範囲では、まだ十分な研究が行われているとは思えません。レッシグ教授などの研究においても、コモンズが利益を生み出すことは示しているものの、プロプライエタリとの比較が弱い上、ソフトウェアという文脈での議論が欠落しています。だから、プロプライエタリソフトウェアがイノベーションに有害であると判定することは勇み足ではないかと考えます。
まったくもってその通り。偏狭なのは他人の考え方を勝手に宗教的偏見などと断定するほうだと思います。<br><br>ただ、プロプライエタリがイノベーションに有害でない証拠はプロプライエタリ陣営が勝手に出してくれるでしょう。OSS派はOSSに有利な証拠だけ集めてればいいのではないかと思います。<br>そういう意味で有害だと主張するのは悪いことではないと私は考えています。<br>どうせあちらもOSSは有害だとか言い出すんですから、自然と両論揃うでしょう。<br>第3者は両方見て判断すればいいのではないかと思います。
企業は第一に営利を目的に行う経済主体なので、オープンソースにした方がプロプライエタリにする以上(>=)に儲かる実例と試算があがらないと「プロプライエタリソフトウェアがなくなる日」はこないと思います。 <br> <br>ベンダーの経営者の欲望より愛が勝ればその限りではないですが、現在のところ、プロプライエタリソースは奴隷制度ほどには非人道的ではないと考えられており、営利の方に軍配を上げる人の方が多いのではないでしょうか。第3者的にも。ヨーロッパの方ではどうかわかりませんが。 <br>
> babieさん <br>プロプライエタリかオープンソースかという選択は、決して経営者が欲望と愛のどっちを取るかという問題ではありません。「オープンソースは愛だ!」なんていうタイトルでプレゼンをした私が言うのもアレですが。。。 <br>ベンダー企業の営利は、買い手がいることで発生しますから、買い手がプロプライエタリよりもオープンソースを選択するようになれば、プロプライエタリソフトウェア(もしくはベンダーそのもの)は自然と減っていくでしょう。 <br>「プロプライエタリソースは奴隷制度ほどには非人道的ではないと買い手は思ってくれているはず」という前提は、決して安泰なものではないと思います。
こんにちは。 <br> <br>私自身ヨーロッパにすんでいるエンジニアということもあり、いつも親しみをもって拝見しております。 <br>私は現在オープンソース関連の企業とプロプライエタリ企業の両方に対して就職活動をしており、今回のトピックは私自身にとっても身近に感じている問題なので、私の意見もかかせていただきたいと思います。もし誤解して述べているいる点などありましたらすみません。 <br> <br>まず「奴隷制度」の解釈に関してですが、刺激的な言い回しのわりにかずひこさんのおっしゃりたいとしていることがわかりずらかったので、「オープンソースは愛だ」のプレゼンテーションまで遡ってみました。 <br> <br>そこでは以下の2点がプロプライエタリの弊害として指摘されています。 <br> <br>*ベンダーロックインからの解放 <br>*開発会社や担当者がいなくなるリスク <br> <br>そしてその処方箋として、 <br>*「コスト削減」のためよりも「業務の継続」のためにオープンソースを選ぶ <br> <br>とあります。これらが議論のポイントと理解してよろしいでしょうか? <br> <br>これに対する私の個人的な考えは、ソフトウェアそのものがオープンソースかプロプライエタリかどうかより、ユーザーがそのソフトウェアに使用してつくりあげたデータに、いかにポータビリティ(移行可能性)があるかどうかのほうが重要だと思います。確かにオープンソースの方が、プロプライエタリより、もしソフトウェアの製造元が倒産した(あるいはアップグレードの頻度が遅い)場合、コミュニティの力を利用して、ソフトウェアの寿命を延命させることは可能です。しかしながらほとんどのソフトウェアには寿命があり、いずれは発展が止まる日が来ると思います。そういった際、ユーザーが今まで作り上げたデータを他の類似ソフトに移行さえできれば、別にプロプライエタリでも良いのではないでしょうか(もちろん新しいソフトになれるまで時間がかかりますが、それはロックインの要因まではならないでしょう)。 <br>特に昨今のサービスはSAAS(SoftWare As A Service)の形態が多いため、ユーザーが実際にソフトウェアをインストールするより、プロバイダー元にデータを置いている割合がふえてきています。その場合、そのプロバイダーのソフトウェアがオープンソースかどうかにはあまり問題がないと思います。例えばFaceBookのユーザーがFaceBookが嫌いになった(あるいはFacebookがつぶれた)場合、「もしFacebookがオープンソースだったら、自分のサーバにFacebookアプリをインストールして、自分でSNSたちあげるのに」と思うでしょうか。それよりも「自分のいままでのデータをすべてMySpaceかMixiに移したい」と考える方が普通ではないでしょうか? <br>
続きです。 <br> <br> <br>次に「プロプライエタリかオープンソースかという選択は、決して経営者が欲望と愛のどっちを取るかという問題ではありません」というコメントに関してですが、オープンソースとどういった形で関わってくるかによって欲望と愛のバランスがかわってくると思います。 <br> <br>1.オープンソース開発元(あるいは開発者) <br> <br>Dan Kogaiさんが、先日のZed Shaw の「Rails is A Ghetto」を、「オープンソースはゲットーか?」と置き換えて論じています( ttp://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50978950.html )。mongrelの作者レベルの実力の持ち主がオープンソースで食べていけないというのはかなり深刻な問題だと思います。37Signalsにしても、別にRuby On Railsから直接的な収入を得ているのではなく、Railsによる会社のPR、そしてオープンソースではないBaseCampなどからの収入でなりたっています。Matzさんやその他のオープンソース作品の作者も、そのソフトウェアの価値を理解する(あるいはその技術の普及によって恩恵をうける)企業に雇われていますが、それは全ての開発者に用意されている道だとは思えません。 <br> <br>オープンソースはDHHのように、高い技術力としたたかな(?)商才がないと収入化の道は厳しいですし、その逆の例としてZed Shawのように、愛が憎しみにかわってしまうのは悲しいとしか、いいようがありません。 <br>ちなみに私が現在就職活動をしているオープンソース企業とプロプライエタリ企業の給料は2倍近くの差があります。比較的物価の安い地域にすんでいる開発者にとっては、すむ場所を選ばず開発に参加できる割合の高いオープンソース開発は魅力的ですが、NY, London, 東京など、物価の高い地域にすんでいる開発者にとって、低収入で生活するのはかなり厳しいのではないでしょうか。私は物価高騰の著しいLondonにすんでいるので、NYにすんでいるZedが人ごとには思えません。 <br> <br>2.オープンソース技術者 vs オープンソース採用企業 <br> <br>私が住んでいるイギリスでプロプライエタリDBA(Oracle, Sybase)とオープンソースDBA(MySQL)の年収を比較すると1.5倍近くの差がつきます。( ttp://www.itjobswatch.co.uk )。これはオープンソースの教材はいくらでも手に入るので、プロプライエタリに比べてエンジニアの供給過多、それにともなう賃金低下が生まれると言ってよいのではないでしょうか?これは、その技術に対する愛着(あるいは将来の技術の普及への期待)がないとやっていけません。逆にオープンソースを採用する企業の一番のモチベーションはコスト削減の場合が多いので、オープンソースに対する愛で選択するより、「安さ」という欲望の比率の方が高いと思います。 <br>ただ「安かろう、良かろう」でソフトウェアを採用しても、サポートサービスが伴っていない場合、一部の高スキルオープンソースエンジニアに「コンサルタント」としてサポートを依頼する事でよけい高くつく可能性もありますが。 <br> <br>長々と書いてしまいましたが、オープンソース技術と関わっていくには、「技術に対する愛」、「その道で一流になろうとする覚悟」そして「収入の道を確保するビジネスセンス」が必要なのかな、と思えてきました。色々慎重に考えてから自分の進路を決めてみたいと思います。両方の会社から内定を貰えない、という悲しい事態も十分考えられますが <br>;-) <br> <br>それではまた
> makotoさん <br> <br>就職活動する側からの視点をありがとうございます。:) <br> <br>おっしゃるように、データのポータビリティはユーザ利益にとって重要な視点です。 <br>「ほとんどのソフトウェアには寿命があり、いずれは発展が止まる日が来る」という点については、プロプライエタリでもオープンソースでもさほど変わらないように見えるかもしれませんが、それは違います。プロプライエタリの場合は、そのタイミングはベンダーの意向で決まってしまいますが、オープンソースの場合はユーザがそのタイミングに自分の意志を反映させることができます。 <br>少なくともビジネスの現場においては、「新しいソフトになれるまで時間がかかります」というコストは、決して軽視できないものです。しかもそれを自分の意志と関係なく強制されるのは、大きなリスクになりえます。 <br> <br>SaaSのたとえ話については、データのポータビリティが低いサービスは論外としても、ポータビリティさえあれば、それでユーザの利益が十分にあるというわけではありません。サービスを提供するソフトウェアがオープンソースであれば、サービスを提供するプロバイダを自らの意志で選ぶことができます。例えば、よりニーズにあったプロバイダがあればそちらに移行することも可能です。 <br> <br>これらの話に共通しているのは、ユーザは自分のデータや自分のビジネスを自分の意志でコントロールできて当然だということです。 <br> <br>後半はまた後でお返事します。