かつて高校時代に社会科の授業で出てきたものの、実際には読んだことがなかったジョン・スチュアート・ミルの「自由論」を読みました。 私が読んだのは、約1年前に出版された新しい翻訳で、評判どおりにとても自然で読みやすい文章でした。
ミルの自由論は、「社会が個人に対して適切に行使しうる権力の性質と限界」がテーマです。 そして、個人に対して権力を及ぼす社会は、国家権力だけではありません。 第1章「はじめに」で、ミルはこう言います。
社会そのものが専制的になり、社会がその一員である個人を抑圧する際には、抑圧の手段は国家権力を担う官吏の行動だけに限られているわけではない。 社会はみずからの決定を実行できるし、実際にも実行している。 その決定が正しくなく、間違っているか、社会がそもそも干渉すべきではない事項に関する決定である場合には、社会による抑圧は通常、政治権力による抑圧よりはるかに恐ろしいものになる。
つづいて、第2章「思想と言論の自由」で、それがいかに大切であるかを力強く説きます。
意見の発表を禁じることには特別の害悪があり、人類全体が被害を受ける。その時の世代だけでなく、後の世代も被害を受ける。そして、発表を禁じられ体験をもつ人以上に、その意見に反対する人が被害を受ける。その意見が正しかった場合、自分の間違いをただす機会を奪われる。その意見が間違っている場合にも、間違った意見にぶつかることによって、真理をそれ以前よりしっかりと、活き活きと認識する機会を奪われるのだから、意見が正しかった場合とほとんど変わらないほどの被害を受けるのである。
最近、まつもとさんが日記でプログラミング言語PHPについて批評したことに対してさまざまな反応があり、影響力が大きいから自重しろと思う人が多いそうです。 artonさんも日記で「影響力のある人」という題で取り上げていましたが、この「自重しろ」がいかに危険な発想であるか、そしてそういう発想をする人が多いことがいかに危険なことであるか、上述のミルの言葉を踏まえて改めて考えたいものです。
さて、以前の私の日記「プロプライエタリソフトウェアと奴隷制度」に対するソーシャルブックマークのコメントの中に、「自ら進んで奴隷になる自由は保障されるべき」というコメントがありました。
この、奴隷商人がみずからの行動を正当化するための詭弁のようなコメントを、一体どう受け止めたものか、しばらく考え込んでいました。 しかし、この問題についても、ミルは第5章「原則の適用」で断固として否と答えています。
被害を受けた他人のためでないかぎり、個人の自主的な行動に干渉しないのは、本人の自由を大切にするからである。(略) しかし、自分を奴隷として売るとき、その人は自分の自由を放棄することになる。(略) したがって、自分の人生を自分で決める自由の目的になっている点、その自由が正当だとする根拠になっている点を、みずからの行動で無効にすることになる。その人は自由ではなくなるが、その後は、本人がその立場を変えようとしないのだから本人の自由に任せるべきだとは想定できない境遇になる。自由の原理では、自由を放棄する自由は認められないのである。
自由な社会について考える際の一つの指針として、これからも折にふれて読み返したい名著でした。